【3】

 お気に入りの場所は,もちろん夢の街のほうに多い.その十七階建ての建物の屋上に出るには,十三階でエレベーターを下りる.フロアを一周して,非常階段を三階分昇り,鍵のついていないほうの扉を選んで外にでる.それから,金属のはしごを使ってその空間にたどりつく.ぼくはここに至るための道のりが好きだった.いちばん近い「遠いところ」という感じがする.そして,街でいちばん高い建物.
 屋上の小さな部屋のような空間は柵もなく,コンクリートの淵の外はもうなにもない空だ.ぼくは寝転がったり,あぐらをかいたり,椅子を持ち込んで本を読んだりして,しばらくそこで過ごす.もっとも,この特殊な環境の中,本の内容はほとんど頭に入ってこない.ただ「本を読む」という行為を味わいたいだけだ.どんなにリラックスしようと心がけたところで,ぼくの意識は,この限定された地面の淵に張り巡らされてしまっている.虚空に一歩足を踏み出せば,空気抵抗よりも遥かに強い重力がぼくを捉え,何秒かのちに地上の石畳に叩き付けられることになる.死ぬだろう.夢の中の死は,単なる覚醒に過ぎないのだろうか.それはぼくにもわからないことだった.
 こんなところにまでタンポポが生えている.彼はここが地上から遠くはなれた場所であることをわかっているのか.
 名前の知らない鳥が部屋のふちで休んでいる.彼はそんなに端っこにいて怖くないのだろうか.たぶんそうだろう.その鳥はなにも考えずに空に足を踏み出したみたいだった.地面を歩くように,自然に空を滑り出す.思わずぼくもつられてそうしてみる……というわけにもいかない.でもいまなら…….地面に激突する前に装置を作動させればいい.口の裏の感触を確かめる.いつか現実の世界で足を踏み出さなければいけない気がする.夢の中で練習しておかなきゃ.万が一失敗してもこれは夢だ.自殺する夢を見て,夢自体を終わらせる.だだのゲームのはずだ.

 コンクリートと空の際に腰を下ろす.足を中空に浮かせて,目をつぶると,平衡感覚が揺れて,そのままふらりと落ちてしまいそうだ.怖い.でも大丈夫.やる,と決めたんだ.
 臆病に尻をずらしていって,最後は滑るように,ぼくは身を放る.

 迫る地面を,静止画のように一瞬だけみた.すぐに頬の錠剤を噛み砕いた.血の味に鈍い苦みが混じるのを感じる.脳が伸びていくような気がした.落ちていく身体の感覚が一瞬ゼロになり,次いで浮遊する.重力の感覚を失ってる,たぶん.

 どんな風だったかって? ゆっくりと手と足の先から力が入らなくなっていく.同時に視界が両端から狭まっていって,ぼくは慌てる気力もなく,暗闇が視線の中央までを覆うのをみていた.苦痛も不安もない.きっとぼくは笑っていた.からだが動かなくなっていっても,最後まで動いているのは意識なのだと直感する.意識が生まれ,からだが生まれたとき,ぼくはこんな感覚を味わっていたのだろうか.いまは,その感覚を逆回しで体験しているんだ.ぼくはだんだんと空気や空のような,形も重さも思いも持たないものに溶け込んでいくような気がした.風景と自分の意識がマーブリングのようにもやもやになってしまったとき,一つ風が吹くと,ぼくたちは一つの灰色一色の液体になってしまった.それはバケツの中の単なる汚れた絵の具のように思える.
 目をあけると現実だった.

 最初に彼女が言ったように,夢の世界に来るたびに装置は再生していた.それで,ぼくは何度か身を投げる練習を繰り返した.夢の中で死んで,現実に帰るというのは,なんだかひどく虚無的なものだった.そして,その虚無感が夢世界全体に広がっていることにも気づき始めた.
 ぼくは夢の世界で新しい色や匂いや動きをみかけるようになっていた.どうやらそれは現実から持ち込まれたようで,夢と現実の風景はますます区別がつかなくなった.

表紙へ 捲る inserted by FC2 system