【4】

 ぼくは夢の中の街で歩きながら考える.久々に夢らしい夢で,自分がよく知っているあの街だった.自分を特別視することなく自然に生きていた頃,住んでいた街だ.現実の街は少しずつ変わっていくのだろうけど,この夢の街は,全体がプラストミックみたいに固定されている.少なくとも,いままではそうだった.
 ぼくが歩いているのは,夢のいつもの時間.目覚めたときに夕方なのか早朝なのかわからなくて混乱するような,淡い青の時間だ.やはり人の気配がまったくなくて,ただ信号が赤と黄色の点滅を繰り返している.街中が白っぽい霧で少し湿っていて,アスファルトや空気の表面で点滅が乱反射していた.長い間考えごとをしながら,ぼくは歩きつづけた.夢の中で永遠に続くこの時刻が,ぼくは好きだった.
「ぼくは思うんだけど,死の概念が,現実を現実たらしめているんだ,きっと」
 返事はない.ぼくの独り言だ.
「現実での死が,現実で生きることとコントラストをつくる」
 ぼくは出来る限り論理的になろうとする.でも,夢の世界で考えたことは,現実の世界ではいつも意味をなさない.
「あれはゲームかもしれない.でも,ぼくの身体と精神は本当の死を,その直前まで味わっている.夢の中での死を知ったぼくにとって,夢は夢としてのリアリティを持ち始めた.夢は単なる夢でしかなくなった」
 いったいぼくは正しいことを考えているんだろうか.それを判断する視点がどうしても持てない.こちらの世界で思ったことを記録して持ち帰ることのできるメモ帳があったらどうかな.まったく理解できない言葉が残っているかもしれない.
「この夢の世界はリアルになりすぎてしまった.もうここにいてもしかたない」
 そう思うと,この世界が終わってしまう気がした.雑貨屋のあの娘と話がしたかった.

「君がそう願えば,私は君のそばにいるのさ」
 それはぼくの独り言だったのかもしれない.彼女の口調を想像して,ただ,そう思っただけだったのかもしれない.
 それでも,彼女はそこに立っていた.毛糸で編んだ虹色の帽子をかぶって,同じ色のバッグを肩からさげて.
 こんなことを訊いたら,君が消えてしまいそうにも思うんだけど…….君はぼくが作った存在なのかい?
 ぼくは不思議だとも思わずに訊ねる.自分がいつのまにか雑貨屋の中にいることにも気づいた.そして,朝の陽光が木枠の窓に切り取られ,彼女を照らしている.時間の経過とともに陽が昇ってきている.
「それはよくわかんない.謎さ.私は,ずっとまえからこの世界にいるような気がする.君が意識というのを持って,この世界に現れるまえからね.そういうふうに君が思ったからかもしれないけどさ」
 君は,消えてしまうの?
「それもよくわかんない.謎さ.ずっとこれからもこの世界にいるような気がする.君が意識というのをなくして,この世界から去ってしまったあとでもね.そういうふうに君が思ったからかもしれないさ」
 ぼくの夢はどんどんリアルになっていく.でも君は変わっていないよ.きっと,君はぼくの夢とは無関係なんだ.
「そうさね,本当のことは君も私もわからないさ.ここには君と私しかいないから,誰にもわからないってことさ.……どうかなあ,ちがう誰かの夢の中に現れることができるかもしれないさ」
 ぼくらはしばらく黙ってお互いのことをみていた.なにか話をして,笑い合いたかった.
「そうだ,メモ帳は売ってないの? 書いたことを現実に持ち帰れるのがいい.いま思っていることを覚えておきたい.そうだ,君も,君の字で,なにか書いてほしい」
「それは,置いてないさ.ルールなのさ.この世界のものは持ち出せない.記憶はべつだけれどね.……大丈夫,君は覚えているよ」
「写真機も,ないんだろうね」
「うん,ないさ.どうして?」
「いや,なんでもないさ」
「うん,さよならさ」
 目が覚めた.
 もう夢にしか思えない.でも,さっきまでは,夢の中では,彼女は現実以上にリアルな存在だった.ポートレイトなんか要らないくらいに.

 さいきんは,もうあの夢の世界に行くことはない.ぼくは普通の現実を少しずつ受け入れて,普通の人たちと同じように生活している.死ぬことは,ときどき考える.でも,それは普通のことなんだ.
 そして,ときどき普通の夢をみる.その中でぼくは彼女を探している.彼女の言葉のように,とても楽観的に.短い間だけども,覚めてしまうまでは,探しつづけているんだ.

〜おわり〜
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