【1】

 自己紹介から.名前は――.出身地は現実.現住所も現実.夢のほうに住民票を置こうか迷ってた.べつに精神異常をみるような目を向けないでほしい.みんなだって三分の一だか半分は夢の中で生きてるだろ? ぼくは夢には特別な思い入れがあるんだ.話してみるよ.

 生まれて育ったのは,いまとは違う街だった.街は人口が少なく,ぼくは友達が少なかったから,家にいるといつも独りでベッドの中にいた.病弱だったわけではない.もう一つの世界に行くために,眠りの傍にいたのだ.

 夢の世界は,ぼくにとって現実とあまり区別のつかない世界だった.夢の中の自分の部屋から出発して,街の中心部までは現実の街によく似ている.それでも細部は少し違っていて,たとえば,電話ボックスの電話機にはダイヤルがなかった.街の時計台は針を失っていた.きっと,通信や時間は夢の世界には不必要なのだ.天気は変わらずに薄く曇って,空はいつも朝焼けのような夕暮れのような淡い色をしていた.

 夢の街は,現実の街をトレースしつつ,郊外の方では旅行で訪れたことのある風景につながっていたり,コンクリートの壁に仕切られていたり,靄のように曖昧に進路を塞いでいるようなところもあった.針を抜かれた時計盤や固定された筋雲は,奇妙な存在感を伴っていた.その風景が「ここは現実ではなくて夢なんだ」と教えていた.
 ぼくは現実で現実の人たちと過ごしつつ,もう一つの世界を一人で生きていた.誰もがそうしていると思っていたんだ.

 さて,現実の話.ぼくは最初の街を十代の途中で引っ越した.新しい場所でぼくには親友ができた.彼とは学校や勉強や音楽や女の子の話をしたりした(どこかにいい娘がいないかなあ,と彼はいつもぼやいていた).とくに楽しかったのは,彼が哲学や心理学の話をしてくれたことだ.
 いつもの議論が一段落したところで,ぼくは世間話のつもりで,
「きのうは夢の世界で,ランプの素敵なのを見つけたんだ.あと,新しいマッチ.今日,灯してみる」
 すると,彼は議論中のいつもの顔で,短く質問を向けた.
「きのうの夢を,今日もみるの?」
 彼の表情は真剣だったが,ぼくは苦笑しながら答える.
「どういうことだい? ぼくの夢の世界での出来事を話しただけだよ」
「それは興味深いね.ぼくにとって,夢はただの夢さ.とるに足らない,無意識の雑音のようなもんだ」
 今度はぼくの表情が真剣になる.
「それは,どういうこと?」

 そのときに初めて,ぼくは自分が他人と違う風に,二つの世界を感じていることを理解した.ショックではなかったし,むしろ,みんなが唯一つの現実でみんなと一緒に生きていることに素直に感心した.そして,自分が少し特殊であることに自覚的になると,特別なアイテムを持っているような気分になった.機能的でデザインもシックな,素敵な道具だ.きっと,ぼくはふつうのみんなとは違うように生きて,違うように死ぬんだ.そう思わせる力が,ぼくの内側と外側の両方から働いているような気がした.
 そのことは,親友にも話さなかった.そして,彼はその後すぐに転校してしまって,ぼくはまた独りになった.いくつか手紙を交換してみたけれど,ぼくらがしていたような会話は,文字ではうまくいかなかった.ぼくは以前にも増して孤独になった.

 ぼくが救いを求めたのは,自分だけの夢の世界だ.ぼくは,少し変わった.もしかして,夢の世界はぼくが自在に操ることができるんじゃないか,と思い始めたのだ.空を飛んでみたり,便利な道具を作り出したり,素敵なガールフレンドを作ったり…….ぼくは,少しだけ願いを込めてから眠るようになった.
 夢世界は劇的に変化することはなく,いつも通りの夢の日常が続いた.それでも,日常の中に隠れた小さな願望が,少しずつぼくのものになっていくような気がした.
 しばらくの間,ぼくは精神をほとんど夢の世界で集中して過ごした.もし現実の世界で死ぬことができれば,ずっと夢の中で生きていけるような気がした.

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