【6. エピローグ】

春の陽が雲の合間から差し込み,さらに三部咲きの桜の枝の合間をくぐる.
自転車で川辺を飛ばしていると,一枚の花びらが視界を弾いていった.
桜の花びら一枚で,人はずいぶん幸せな気分になれるものだ.
あの日初めてねじを回してから(拍子抜けするほど簡単に回り,世界のねじを回してるような実感は全然なかった)一日一回,世界の旋回は俺の日課になった.
電池切れだったのか,はたまた非実体も風邪の概念は持っているものなのか,とにかく久遠さんは翌日には回復して,カウンターで相変わらず静かな表情をたたえることとなった.それも,可能態としての微笑みを知っている俺には,ずいぶん豊かなものに映る.
「ねじを巻くのは特別な才能が要るのかもしれない.私にはもう出来ない.あなたがやるべき」
おかげで毎日久遠さんと顔を合わせることとなったわけだ.
一度,彼女に尋ねてみた.
きみは一体いつから存在しているんだろう?
「わからない.忘れてしまった.というか,いつからとか,考えるやりかたがわからない.時計は本当はただ時を刻むだけ.時を計るのは人間の仕事」
ねじ巻き人としての俺に人類の責任なんて感慨は全くない.俺が毎日ここに通うのは,世界の停滞や凍結を予防するためではない.
この久遠時計店の腕時計が結構気に入ってるからな.
それに,止まった世界で独り佇む久遠さんなんて,俺には想像するに堪え難い.
彼女をあらためてみつめる.
不思議な存在感にもずいぶん慣れた.時計の文字盤みたいにね.
普段は気に留めなくても,もし時計の針が丸ごとなくなってしまったらずいぶん戸惑ってしまうと思う.
だから,彼女にはずっとこの世界に在ってほしい.
少なくともあと二百年くらいはね.

〜おわり〜

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