【5. 久遠時計店の秘密】

助けてくれたお礼,と言って彼女は話し始めた.
「私はいわゆる実体とは違う.どちらかというと様態とか可能態とか呼ばれる存在」
ほらね,ふつうじゃない.
「私の仕事は世界のねじを巻くこと.時間を回すこと」
時計の妖精ね,そういうことにしておこう.
「隣の部屋にねじがあったでしょう」
あの,銀色の柱のことだろうか.
「地球のずっと奥まで続いてる.大きな円盤があって,世界の時間はそれに乗って動く」
そうか,オルゴールみたいに.
「毎日,ねじを巻かないと,その時間円が止まってしまう」
そりゃあ,責任重大だ.ねじを巻かないと,どんどん時間が遅れてしまうってわけか.ましてや,それが止まってしまったら,世界の終わりじゃないのか.
「いや,なにも.少なくとも地球上のすべての存在は,一つの時間円に同期しているから.現に,今,時間が遅れていることを感じている者はいない」
どうも俺は思ったより冷静な人間のようだな,と,非常識な発言に相づちを打ちながら自己分析する.しかし,少し考える限り,ずいぶん無害な話のようだぞ.
彼女の発話数とその具体性をこっちで補いながら,俺はさらに考え込んだ.
えーと,つまり,みんな一斉に遅れても,だれも気づかないってことか.
「そう.すべての時計のくるいかたが同じなら支障は生じない.もし時間が止まっても,それを認識するものは誰もいない」
じゃあ,その,時間円とやらを回す意味はあるのか?
「……わからない.でも,私の仕事だから.それに,回さないと,このお店の時計は全部くるっちゃうし.この店の時計だけが,本当の時刻を示すの」
なんというか,その達観には説得力があった.なるほど,思念的な存在ね.
「ここに来れる人はとても少ない.お願い.あなたなら回せると思う.時計回りに十回.向きを間違えないで」
それは,構わないけどさ.
俺が頷くのを確認すると,安心したのか,彼女は息をついて目を伏せた.
「身体に力が入らなくて……ねじも回らなくなってしまった.今までこんなことなかったのに」
気にするな.実体を持たない存在だって疲れることはあるだろう.
「電池切れかな……」
やっと微笑みが拝めたね.と,満足したのも束の間で,時計の精は微笑を浮かべたまま動かなくなってしまった.おーい.慌てて肩を揺すると,すっと表情が緩み,そのまま寝息を立て始める.
まったく,時計じゃないんだからさ.

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