【4. 久遠時計店再び】

「壊れてはいない」
だって,ほら,時間がくるってる,と俺は主張し,携帯電話の時刻表示と腕時計を並べてみせた.
「くるってるのはそのデジタル時計のほう」
いやいや,部屋の時計とも合っていたし,第一,コレは電波を受信して補正する機能がついてる.くるわない.
「くるってるのは世界の時間のほう……」
思わず目を上げて彼女をみた.
きのうよりもなんとなく薄く,弱っているようにみえた.
しばらく目を合わせたあと,ふいに視線が弱まり,瞼が閉じられる.
各部のねじが急に緩んでしまったように,彼女の身体はカウンターに倒れ込んだ.
俺は無言のまま驚いて,立ち尽くしてしまう.秒針の音を三回分くらい聞いていた.
しかし,その後の俺は意外に平然と行動していた.女の子に触れるのに慣れてるわけじゃないが,カウンターの内側に回り込み,彼女を抱きかかえる.
「大丈夫……でも,奥の部屋まで運んでほしい……」
入り口と反対側の扉を開けると,作業室のような空間に出た.木製の机に小型のハンマーやドライバー,それに顕微鏡のような装置,歯車や木型などが目に入る.作りかけらしき時計もある.テーブルの向こうには大きな振り子――ゼンマイや鎖がつながっている――と,取っ手の付いた銀色の柱がある.
さらに奥の部屋,彼女の自室だろう,ベッドの手前まで来ると,彼女は自力でそこに入り込んだ.
「ありがとう……」
そう言って小さく咳をする.
気のせいじゃない,彼女の存在はたしかに希薄になっている.白く細い二の腕など,向こうが透けているようにもみえる.
何を言ったものかと迷っていると,ふと気がついた.
店は開けたままでいいのか?
「いい.お客さんはほとんど来ないから……」
ちなみに俺の前に来たのは?
「たぶん,二百年くらいまえ」
この部屋には秒針の音も聞こえない.俺が何秒言葉を失っていたのかもわからない.
いいね.こういう意味が不明な感じは春っぽくてすごくいい.
しかし,一方で妙に納得している俺がいた.
そうだ,ふつうの人間の女性が一人で時計を作ってそれを売って暮らしているなんて,かなりふつうではないことだよな.

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