【3. 一夜明けて】

ここ数日の季節感も忘れて,ただ忙しく夢をみていた.
九時までに起きないといけない.
目が覚めるがまだ視界が泳いでいる.歪んだ針を必死に凝視する.部屋の壁掛け時計は,
十時十五分?
なんてこった.
焦りと諦めが渦を巻き,余計に目の前がぐらぐらしてくる.
ふと気づいて,きのう買った腕時計に手を伸ばす.

八時半だ.
妙に重たい身体を起こす.居間の時計と比べれば確かめられるだろう.
今は一体何時だ?
平衡感覚がまだ半分眠ってるような足取りで移動する.こっちの時計は十分ばかり進んでいるから,少し注意,する必要もなかった.
五時十分.
なにがなんだかわからない.
三つの時計を三回ずつくらい見つめ直す.そいつらは催眠術の道具のように残りの平衡感覚も奪っていった.

……という夢をみた.
今度の視界はわりとはっきりしている.
ここは現実だ.
夢の中で夢であることを思い出せない,そんな現実的な夢をみたのは初めてだった.
何でもないと言えばそうだが,示唆的な妄想もしてみる.何が起こり始めたんだろう.
春の雪解けと一緒に夢と現実の壁も溶けはじめたのか.それとも柔らかくなってるのは俺の脳みそか.
ともかく,現実の中では現実を実感できる.
今は春で,日曜で,休みだ.
きのう買った腕時計をみる.時刻は,八時半.
身体も軽い.起き上がって掛時計をみると,八時ちょうどだった.居間の時計は八時十分.
くるっているのは腕時計のほうらしい.

その日の午前中,久遠時計店の腕時計は断続的に進んだ.一秒一秒は世界中の時計と歩を合わせているようにみえるのだが,ずっと文字盤を睨んでいるわけにもいかず,ふと気がついて確認すると,たしかに五分か十分かずつ進んでいた.
久遠時計店で事情を説明するしかないだろう.
まあいい.
あの時計屋を二日続けて訪問する事由なら,むしろ歓迎するところだ.

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