【1. プロローグ】

長い間固く張りつめた冬の空気も漸く緩み始めた.
花粉だの黄砂だのを挙げて,まるで面倒な書類整理を片付けるように過ごすやつもいるが,俺は春が好きだ.
空気や地面が――世界が――ゆらゆらと,しかし確かな実感を持って,動き始める気がするから.
それに,春の始まりは個人的にも区切りをつけられる季節なのだ.
誕生日.
そろそろ何回目なのかを即答できかねる歳になってきたのだが.なんだかんだいって,自分の生まれた季節を愛したいということか.

だいぶ陽の伸びた夕方,気分転換に散歩に出た.
幻とした夕空を顔を少し傾けて望む.足取りが夢心地になる.
小さな川の,小さな橋を渡り,小さな商店街に入る.
それは,ふいに目についた.

『久遠時計店』

新しく出来た時計屋かな.
自分へのプレゼントなどという気持悪いことはしたくないが,誕生日から新しい時計を持ち始めるのも悪くない.

その時計屋に足を向けたとき,ちょっと不思議な話が始まってしまった.
物語はそれなりに劇的ではあったが,結果的に何でもないことでもあった.
世界に影響する,なんてことは,文字通りの意味でなかったし,俺自身への影響も,まあ,幾ばくかのものだ.
質量で言ったら,桜の花びら一枚くらいの変化かな.

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